大和四神めぐり

室生寺

 奈良時代末、皇太子山部親王の病気平癒のために、五人の僧が室生山中で延命法を修し、病を治されたことにより、興福寺の僧、賢憬が朝廷の命により国家の為に室生寺を創建、その後修円が伽藍を整えたといわれている。
 修円の時代のころから、興福寺の僧侶を中心として天台・真言などの高僧を迎え、山林で修行する道場として発展しました。その後、江戸時代に入り5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の庇護を受け、興福寺から分離独立し、真言宗豊山派となる。この頃から同じ真言宗で女人禁制だった高野山金剛峯寺に対し、室生寺は女人の参詣を許したため「女人高野」と呼ばれ、女性の信仰を集めました。現在は真言宗室生寺派大本山として、その法燈を護持しています。




金峯山寺

 吉野山から山上ヶ岳(大峰山)に至る金峯山は、万葉の昔より聖地として知られ、皇族や貴族をはじめ多くの人々が足跡を印しています。白鳳年間(7世紀末)修験道の開祖・役行者がこの金峯山を道場として修行され、蔵王権現を感得し、そのお姿を桜の木に刻み、お堂を建ててお祀りしました。これが蔵王堂であり、金峯山寺の草創であると伝えられています。
 以来、金峯山は、修験道の根本道場として広く万人に尊崇され、数多の修験者が宗派を超えて入山修行しています。また、役行者が蔵王権現のお像を桜の木に刻んだことから、桜が保護・献木されて吉野山は桜の名所となり、人々の心の安らぎの場となるに至りました。
 現在の金峯山寺は金峯山修験本宗の総本山であり、全国教信徒の信仰と教化の中心となっています。




信貴山 朝護孫子寺

 今から、1400年余前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は 奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻まれ伽藍を創建、信ずべき貴ぶべき山「信貴山」と名付けられました。以来、信貴山の毘沙門天は寅に縁のある神として信仰されています。
 醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちに癒えました。これにより天皇から朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。また、朝護孫子寺は「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。




西大寺

 創建は奈良時代の天平宝字8年(764)称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために、7尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まります。造営は翌年天平神護元年(765)からほぼ宝亀末年(780)頃まで続けられたと考えられていますが、創建当初の境域は東西11町、南北7町、面積31町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に110数宇の堂舎が甍を並べていました。文字通り東の東大寺に対する、西の大寺にふさわしい官大寺でありました。
 その後平安時代に再三の災害に遭い衰退しましたが、鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊上人がこの寺に入って復興に当たり、創建当初とは面目を新たにした密・律兼修根本道場として伽藍を整備されました。現在の西大寺の伽藍は、ほぼこの頃の様子を伝えています。